今井ゆみ X IMAIYUMI

多摩美術大学 絵画科日本画専攻 卒業。美大卒業後、広告イベント会社、看板、印刷会社などで勤務しながらMacによるデザイン技術を習得。現在、日本画出身の異色デザイナーとして、日本画家、グラフィック&WEBデザイナーなど多方面でアーティスト活動中。

4 今井ゆみ

母は、私を妊娠した。

相変わらず、2人目の妊娠のときも、母の身体は妊娠には適していないようで、妊娠したお腹を抱えながらの母の暮らしは大変なものだったようだ。1人目の、姉の出産のときには、父の母親、私の祖母が一緒に同居していたので、祖母にいろいろと生活を手伝ってもらっていた。しかし、数年前に祖母は病気で他界していた。

母は、1人で妊娠した大きなお腹を抱えて頑張るしかなかった。それでも、どうしても1人でやっていくのに限界を感じた母は、父に相談して出産までの間しばらく実家に帰ることとなった。

母の実家は国内ではない。国外、アメリカのニューヨーク州、マンハッタン郊外の住宅地に在った。

母の父親、私のもう1人の祖父は、慶応大学の経済学部を卒業した後、大手商社の海外事業部に勤務していた。大手商社なので、世界各国に支店があり、海外事業部に配属していた祖父は、世界じゅうによく出張しており、ときには転勤となることも多かった。中でも、ニューヨーク支店への出張は数が多く、現地への転勤が決まった時には、祖父だけでなく、祖母、母の母親も一緒についていった。そのときは祖母と一緒に母もニューヨークに引っ越していた。

その後、祖父は欧州本部長などを歴任し、会社の役員にまで昇りつめていた。どうしても大手商社での祖父の仕事はニューヨークでの仕事が中心になっていて、ニューヨークに居住していた時期が一番長くなっていた。家族である祖母や母の生活も自然とニューヨーク中心になり、ニューヨーク郊外に住宅を購入したのだった。

その後、祖父は会社を定年退職すると、会社での業務経験を活かして、マンハッタンに支店の在る日系会社を取引先とした経営コンサルタントの会社をマンハッタンに設立した。その会社は、マンハッタンの地で業績をどんどん拡大していき、祖父はニューヨークに移住することとなったのだった。

将来、医者を目指すことを決めた母は、祖父が卒業した慶応大学の医学部に合格し、ニューヨークの実家を離れて、東京で一人暮らしをするようになったのだった。そこで、同じ大学の父と知り合い、結婚して姉の祥恵が生まれたのだった。それから5年後、再びお腹に2人目の子供、私を授かって、ニューヨークの実家へ久しぶりの里帰りすることとなったのであった。

母は、姉の祥恵も連れて、ニューヨークの実家に帰るつもりでいた。しかし、姉は外国なんて行きたくない、日本に残ると、母とニューヨークに行くのを拒んだ。父が、姉の面倒はしっかりみておくと約束したのだったが、母は父にすべてを任せるのが不安だった。

特に心配だったのだが、里帰り中に姉は幼稚園を卒園し、初めての学校、小学校へ入学することだった。公立の小学校に通わせて、学校でいじめられて・・いや、祥恵がクラスの男の子たちを従えて、ほかのクラスの男の子たちのことをいじめたりして校内で大問題になったりしないかと心配だった。祥恵は小さい頃から割と正義感が強い子だった。幼稚園で背の小さい女の子が、男の子にイジメられていたりするところを見かけると、見て見ぬふりをできない子だ。いつも自分の下に従えている男の子たちを連れて、他のクラスまで遠征に行ってイジメている男の子のことを退治したりしていた子だった。

「あの子は、お金はかかるけど私立の小学校に通わせた方が良くないかしら」

母は、東松原駅から井の頭線に乗って井の頭公園駅まで1本で行けるところに在る私立の小学校を見つけてきて、その小学校を父に紹介した。父は、母が祥恵のことをその小学校に通わせたいのならば、里帰りしている間にやってくる入学式では、ちゃんとその私立小学校に通わせるから、安心してニューヨークに里帰りしてきなさいと返事して、母は日本の地を旅立った。

母のお腹の中にいた私も、母と一緒に飛行機に乗って、アメリカのニューヨークへと旅立ったのであった。

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