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下田

「ゆみ、お寿司でいい?」

お母さんは、ホームの駅弁屋で弁当を手にしながら、ゆみに聞いた。ゆみは、お母さんに黙って頷いた。

「1人で全部食べきれないよ」

「ええ、お母さんと半分こしましょう」

お母さんは、ゆみに言った。

「まもなく、下田行き伊豆急が出発します!」

駅員さんのアナウンスが東京駅のホーム中に鳴り響いていた。

「出発する・・」

「急ぎましょう」

2人は、買った駅弁を持って、電車の中に戻った。

「すごい、いっぱい人が乗っているね」

ゆみは、自分たちの席に座ると、お母さんに言った。夏休みということで、電車の中は家族連れや旅行に行く人たちで満員だった。さっき、乗ったばかりのときは、まだ発車まで時間があるということでそんなに混んではいなかった。

「指定席にしておいて良かったわね」

「うん」

駅弁を広げながら、お母さんは、ゆみに言った。駅弁は、マス寿司だった。ゆみは、少食なので2個も食べればすぐにお腹がいっぱいになってしまう。残りをお母さんが食べる。その代わり、ゆみはジュースを飲んでいた。

「お腹いっぱいになったら、まだ到着までしばらく掛かるから寝ていてもいいわよ」

「うん」

ゆみは、隣の席のお母さんに甘えていた。

「なんか、お母さんと2人だけの旅行だから、あたし一人っ子になったみたい」

「そうね」

お母さんは、自分の胸に甘えているゆみの頭を撫でながら答えた。

「どっち側?」

下田駅に着くと、電車を降りて改札口を出る。改札口を出たところは、バスのロータリーになっていた。

「バスばかりで、ヨットなんて一隻もいないよ」

「そうね。ここは駅前だから。ヨットは港に停泊しているはずなんだけど」

「港ってどうやって行くの?」

お母さんは、ゆみの手を引きながら駅前をキョロキョロしていた。お母さんにとっても、下田駅なんてそういつも来ているわけではないので、どっちに何があるのかぜんぜんわからなかった。

「すみません。下田港ってどちらになりますか?ヨットがいっぱい停まっているのだそうですが・・」

お母さんは、側にいたバスの案内係さんに質問した。バスの案内係さんの話では、伊豆ヨッテルという場所に行くバスが駅前から出ているらしい。それに乗れば、ヨットが多く停まっている港に着くということだった。

「伊豆ヨッテル」

ゆみは、バスの案内表示に書かれている文字を発見した。

「それみたいね。乗りましょう」

お母さんは、ゆみと一緒にバスに乗りこんだ。バスは、伊豆の海岸線を走り、伊豆ヨッテルに到着した。伊豆ヨッテルの手前には、黒い観光船が停まっていた。

「まもなく出航します!お乗りになる方はお早めに乗船ください」

下田の黒い観光船、黒船の乗船口では、しきりに乗船のアナウンスを繰り返していた。

「一生懸命すすめてくれるけど、あたしたちには黒い船に乗らなくても、お父さんのヨットがあるものね」

「そうね」

お母さんは、笑顔でゆみに答えた。

「でも、お父さんのヨットいないね?」

「いないわね。ここの場所ではないのかしらね?」

港に泊まっているヨットを端から確認していくが、お父さんのヨットはどこにも泊まっていなかった。

「お父さんのヨット、かなり汚ない色していたものね」

「そうね」

「なんか昔は真っ白だったのに、ものすごく薄汚れたって感じのグレイ色だったよね」

ゆみは、去年お父さんのヨットに乗ったときのことを思い出しながら、お母さんに言った。

「そうね。確かにお世辞にもきれいとは言いがたい色のヨットだったわね」

「お父さんのヨットも、こんなにきれいだったら良かったのに」

ゆみは、港に泊まっているヨットを1台ずつ確認しているときに、まだ新しいのだろうか、ピカピカに輝いていた大きなヨットを指さして言った。

「本当ね」

「お父さんのヨットも、昔はこんなにきれいだった?」

「そうね。どうだったかしらね?」

お母さんも、お父さんのヨットが昔きれいだったかどうかについては、ぜんぜん覚えていなかった。何しろ、お父さんがヨットを買ったのは、ゆみも祥恵も生まれるずっと昔、もう30年ぐらい前のことだった。お母さんも、その頃のお父さんのヨットがどうだったかなんてぜんぜん覚えていなかった。

「お母さんもヨットなんて興味なかったからね。当時はお父さんが自分の病院を開業したばかりで、お母さんも病院の経営でいろいろ忙しかったから」

そんな開業したばかりの頃に、お父さんは突然長年の夢だったんだからとか言いだして、30フィートのヨットを1隻ポンと購入してしまったのだった。開業したばかりでまだまだ大変な時期に何の相談もなく購入したヨットなので、お母さんにとってはあまり良い思い出が無かったのだった。

「カフェで一休みしようか」

お父さんのヨットが、この港で見つからないのでお母さんは、ゆみを連れて近くのカフェの中に入った。

「ゆみは、何にする?」

「メロンソーダ」

お母さんは、ゆみのメロンソーダと自分の分のコーヒーを店員に頼んだ。ゆみは、店員が運んできたメロンソーダをストローで飲みながら、表の港の景色を眺めていた。お母さんも、自分のコーヒーを飲んでいる。

「あ、お父さん!」

ゆみは、窓の外の、港の海を走ってくるお父さんのヨットを見つけ叫んだ。

「あら、本当!ゆみ、よくわかったわね」

「うん!だって、あの汚い船尾の汚れ、去年乗ったときに覚えていたもん」

ゆみは、お父さんのヨットの船尾の船名が書かれた部分が薄汚れてきていて、船名が読みづらいのを指さして答えた。お父さんのヨットは、デンタリスト(歯医者)という船名だったが、後ろ半分が消えかかっていて、デンまでしか読めなかった。

「出ましょうか」

2人は、カフェを飛び出して、お父さんのヨットが停泊しようとしている岸壁まで走った。お母さんは、岸壁に走って行くゆみの後ろ姿を見つつ、そろそろ30年も過ぎているし、下の娘に薄汚れていると言われてしまうまで我慢して乗り続けているお父さんのことを考えて、そろそろ新しいヨットに買い換えさせてあげても良いかなと思っていた。

遅いヨットにつづく

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